【ケネディ暗殺の真犯人は?】検死に葬儀まで

庭のベンチにいるケネディ大統領のイメージ 政治学

1963年11月22日、晴れ渡ったテキサス州ダラスの空の下、アメリカ合衆国は戦後最大の悲劇に直面しました。

第35代大統領ジョン・F・ケネディが市内での歓迎パレード中に銃弾に倒れたのです。この事件はテレビ時代に起きた初の大統領暗殺として生々しい映像とともに全米の記憶に刻み込まれました。

暗殺から60年を経た今もなお、この事件の真相を巡る議論は続いており、数多くの陰謀論が生まれています。

なぜこの事件がアメリカの集合的記憶にこれほど深く根付いているのか、事件の詳細から様々な見解までを詳しく見ていきましょう。

【暗殺前夜】ケネディのテキサス訪問

訪問の政治的背景

1963年秋、ジョン・F・ケネディ大統領は1964年の再選を視野に入れテキサス州訪問を計画していました。

この訪問は単なる政治的なアピールにとどまらず、民主党内の深刻な亀裂を修復するという重要な使命を帯びていました。

当時のテキサス州では、リベラル派のラルフ・ヤーボロー上院議員と保守派のジョン・コナリー知事の間で政治的緊張が高まっており、党内の団結が危ぶまれていました。

ケネディはこの訪問を通じて両者の和解を図り、次の選挙に向けたテキサスでの基盤を固めようとしていたのです。

さらに1960年の大統領選挙でケネディはテキサス州をわずか46,000票差で制していました。南部諸州の支持は彼の再選にとって非常に重要であり、この訪問はその第一歩と位置づけられていたのです。

テキサス訪問の計画は1963年9月に公表され、サンアントニオ、ヒューストン、フォートワース、ダラス、オースティンを2日間で回るというハードスケジュールが組まれました。

特にダラスは1960年の選挙キャンペーン中にケネディの妻ジャクリーンとリンドン・ジョンソン副大統領が保守派から罵声を浴びた地域であり、訪問には政治的なリスクも伴っていました。

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モーターケードの計画

ダラスでのモーターケード(自動車パレード)のルートは安全性と政治的効果を考慮して慎重に計画されました。

ケネディのスタッフはできるだけ多くの市民に大統領を見てもらいたいという願いと、セキュリティの確保という相反する要求のバランスを取る必要がありました。

最終的なルートはダラス市内の繁華街を通り、ディーリープラザを経由してトレードマート(貿易センター)に向かうコースに決定されました。このルートには複数の鋭角なカーブが含まれており、これは後に警備上の懸念点として指摘されることになります。

特に重要なのはモーターケードがテキサス教科書倉庫ビル(Texas School Book Depository)の前を通過することになっていた点です。このビルの6階からリー・ハーヴェイ・オズワルドが発砲したとされています。ルートの詳細は訪問直前まで一般に公開されておらず、ダラスの新聞に掲載されたのは11月22日の朝刊でした。

モーターケードには、オープンカーのリムジン「SSー100-X」が使用されました。当時の大統領警護の慣行として、テロの可能性が低いと判断された場合はオープンカーが使用されていました。この決定が悲劇を招く一因となったことは後に多くの批判を呼び起こすことになります。

暗殺事件の発生と直後の混乱

銃撃の瞬間

1963年11月22日、晴れ渡った金曜日の午前11時55分、ケネディ大統領を乗せた飛行機がダラスのラブフィールド空港に到着しました。出迎えた地元の人々に短いスピーチを行った後、モーターケードに乗り込みダウンタウンへと向かいました。

車列には大統領夫妻を乗せたリムジンを先頭に、副大統領車、警護官車など8台の車両が連なっていました。沿道には推定20万人の市民が詰めかけ、大統領を一目見ようと熱狂していました。

午後12時30分頃、モーターケードがディーリープラザに差し掛かったとき、突然の銃声が響き渡りました。目撃者によればそれは「爆竹が鳴ったような」あるいは「自動車のバックファイア(排気音)のような」音だったといいます。

最初の銃弾はケネディの喉を貫通し、2発目の銃弾はコナリー知事の胸を貫きました。そして致命的な3発目の銃弾が大統領の頭部を撃ち抜いたのです。

大統領夫人ジャクリーンは夫の頭部から飛び散った破片を拾おうとして車の後部トランクに這い上がる行動を取りました。これは彼女の混乱状態を表していると同時に彼女の夫への深い愛情を示す痛ましい瞬間でした。

警護を担当していたシークレットサービスのエージェント、クリント・ヒルは銃声を聞いた直後に大統領車両に飛び乗り、ジャクリーンを保護しようと試みました。しかしこの時点でケネディの負傷は致命的なものでした。

病院での対応

銃撃を受けたケネディ大統領はすぐにパークランド記念病院に急送されました。午後12時38分、病院到着時点で彼はほぼ死亡状態にありました。

病院では、トラウマルーム1号室で緊急治療が行われましたが、頭部の致命的な損傷により救命は不可能な状態でした。医療チームは気管切開や心臓マッサージなどの蘇生処置を試みましたが、午後1時00分、ジョン・F・ケネディ大統領の死亡が正式に宣告されました。享年46歳でした。

パークランド病院の医師たちによればケネディの頭部には「拳大の穴」が開いており「脳の組織の大部分が失われていた」と証言しています。これは後の検死結果とも一致する致命的な損傷でした。

ケネディの死亡宣告から約2時間後の午後2時38分、副大統領だったリンドン・B・ジョンソンが大統領専用機「エア・フォース・ワン」の機内で第36代大統領として宣誓就任しました。

この儀式には悲しみに打ちひしがれたジャクリーン・ケネディも立ち会い、血の付いた服のままで夫の遺体と共にワシントンへ戻りました。

この日、アメリカ全土のテレビ局は通常の番組を中断し、ダラスからの緊急ニュースを4日間にわたって連続放送しました。多くのアメリカ人はテレビの前で涙を流し、国家の喪に服しました。

オズワルドと捜査の展開

リー・ハーヴェイ・オズワルドの経歴

暗殺の容疑者として直ちに浮上したのは24歳のリー・ハーヴェイ・オズワルドでした。彼は複雑な経歴を持つ人物で、その生涯はケネディ暗殺事件の謎を深める一因となっています。

オズワルドは1939年10月18日、ルイジアナ州ニューオーリンズで生まれました。父親は彼が生まれる2カ月前に死亡しており、経済的に困窮した母親のもとで不安定な幼少期を過ごしました。

17歳でアメリカ海兵隊に入隊したオズワルドはロシア語を学び、1957年から1958年にかけて日本の厚木基地で勤務しました。この時期に彼はマルクス主義に傾倒していったと言われています。

1959年10月、海兵隊を除隊した直後、オズワルドはソビエト連邦に亡命を試みます。モスクワに移住した彼はアメリカ国籍を放棄すると宣言しましたが、ソビエト市民権は直ちには認められませんでした。

モスクワでは電子機器工場で働き、ロシア人女性マリーナ・プルサコワと出会い結婚。二人の間には娘も生まれました。しかし1962年6月、オズワルドはソビエト生活に失望したのか、妻と娘を連れてアメリカに帰国します。

帰国後のオズワルドはテキサス州フォートワースやニューオーリンズで様々な職を転々とし、1963年10月には妻子を残してダラスの「テキサス教科書倉庫」で臨時の倉庫作業員として働き始めました。

注目すべきは暗殺の約7カ月前の1963年4月、オズワルドが右翼主義者のエドウィン・ウォーカー元陸軍少将を狙撃する事件を起こしていたことです。この銃撃は失敗に終わりましたが、彼の暴力的傾向を示す重要な証拠となりました。

また暗殺の約2カ月前の1963年9月下旬、オズワルドはメキシコシティを訪れソ連とキューバの大使館を訪問していたことも明らかになっています。この訪問の目的については様々な憶測がありますが、キューバへの渡航許可を求めていた可能性が高いとされています。

逮捕と射殺

ケネディ大統領が銃撃された直後、テキサス教科書倉庫のビル内で警官J・D・ティピットがオズワルドと遭遇しました。オズワルドは警官の質問に答えた後、建物を出て行きました。

銃撃から約45分後の午後1時15分頃、オズワルドは別の警官ティピットによって職務質問を受けます。この時オズワルドは拳銃を取り出しティピット警官を射殺しました。この第二の犯罪によってオズワルドへの捜索は一層強化されました。

警官殺害から約30分後、オズワルドはテキサス・シアターという映画館に潜入しましたが、不審な行動から従業員に通報され、そこで逮捕されました。逮捕時、彼はレブロア社製の0.38口径のリボルバーを所持していました。

オズワルドはダラス警察署に連行され、大統領暗殺と警官殺害の容疑で取り調べを受けました。彼は両方の罪状を否認し「私は単なる生贄だ」と主張しました。警察は彼の部屋からイタリア製のマンリッカー・カルカノ銃と、その銃を持ったオズワルドの写真を発見しました。

しかしオズワルドが裁判にかけられることはありませんでした。11月24日午前11時21分、ダラス警察本部の地下駐車場からダラス郡刑務所に移送される際、地元のナイトクラブ経営者ジャック・ルビーによって腹部を撃たれ、間もなく死亡しました。

この射殺シーンはテレビで生中継されており、全米の視聴者がリアルタイムでこの衝撃的な出来事を目撃しました。オズワルドの死は事件の真相究明を大きく妨げることになりました。

ルビーはオズワルドを射殺した理由について「ジャッキー・ケネディをこれ以上苦しめたくなかった」と述べました。

しかし彼の行動の背後には何らかの陰謀が隠されているという憶測も広がりました。ルビー自身は1967年1月、肺炎とがんの合併症により刑務所内で死亡しています。

ケネディ大統領の検死結果

緊急検死と遺体の移送

ケネディ大統領の遺体はテキサス州法では現地での検死が必要でしたが、新大統領となったジョンソンの指示によりワシントンD.C.への移送が決定されました。

この判断は後に検死結果の信頼性に疑問を投げかける要因の一つとなりました。

午後2時、ジャクリーン・ケネディが夫の遺体を乗せた棺とともにパークランド病院を出発し「エア・フォース・ワン」に乗り込みました。この間、テキサス州の検死官たちとシークレットサービスの間で激しい口論があったと報告されています。

ワシントンに到着した遺体はメリーランド州ベセスダの海軍病院に運ばれ、午後8時から検死が行われました。この検死は海軍の病理学者ジェームズ・ヒュームス大佐らによって実施されましたが、彼らは銃創の法医学的検査の経験が限られていたと後に批判されることになります。

検死によればケネディの頭部には二つの弾痕があり、最初の弾は上背部から入り喉を通過、二発目は頭部の右後方から入り、右前方に抜けたとされています。この結果はオズワルドが教科書倉庫ビルから後方から発砲したという説と一致するものでした。

しかし検死の手順や記録に関して多くの問題点が指摘されています。例えば検死報告書の原本はヒュームス大佐によって焼却されたこと、写真や X 線の一部が紛失していること、頭部写真と実際の傷の不一致などが疑問視されています。

ウォーレン委員会の結論

大統領暗殺からわずか1週間後の11月29日、ジョンソン大統領は最高裁判所のアール・ウォーレン長官を委員長とする特別調査委員会(通称「ウォーレン委員会」)を設置しました。この委員会は暗殺の全容を調査し、国民の懸念に答えることを目的としていました。

約10カ月の調査を経て1964年9月に発表された888ページの報告書(付属資料を含めると26巻)は以下の結論を導き出しました。

  • リー・ハーヴェイ・オズワルドが単独で大統領を暗殺した
  • ジャック・ルビーもまた単独でオズワルドを殺害した
  • 国内外の陰謀を示す証拠は見つからなかった

この「単独犯行説」は後に「マジック・ブレット理論(魔法の弾丸説)」と呼ばれることになります。

この理論では一発の弾丸がケネディの喉とコナリー知事の複数の部位を貫通したと説明されています。

委員会はオズワルドがカルカノ銃で3発を発射し、1発目は大統領車両に命中したものの、ケネディもコナリーも負傷させなかったとしています。2発目が「マジック・ブレット」となり、3発目が大統領の頭部を致命的に撃ち抜いたと結論づけました。

しかしウォーレン委員会の調査方法や結論には発表当初から疑問の声が上がっていました。

特にすべての証拠を十分に検討していない、重要な目撃者の証言を無視している、物理的な証拠と結論の間に矛盾があるなどの批判が寄せられました。

真犯人は?陰謀論と代替説

複数の射手説

ケネディ暗殺事件の公式見解に対する最も有力な対抗説が「複数の射手説」です。

これはオズワルド以外にも射手がいたとする説で、特に「芝生の小山(Grassy Knoll)」と呼ばれるディーリープラザの小高い場所から射撃があったとする目撃証言に基づいています。

銃撃直後、多くの目撃者や警官が芝生の小山方向に走り、煙の匂いを感じたという証言もあります。またケネディの頭部への致命的な銃弾は前方から撃ち込まれたように見えるという法医学的見解もあり、これが複数の射手説を支持する根拠となっています。

有名な「ザプルーダーフィルム」と呼ばれる暗殺時の8mmフィルムには銃弾が頭部に命中した瞬間、ケネディが後方に大きく倒れる様子が捉えられています。物理学の法則からすれば後方からの銃弾によって前方に倒れるはずという議論があり、これも複数の射手説を支持する論拠となっています。

1979年、下院暗殺特別委員会(HSCA)は音声分析に基づき、芝生の小山から4発目の発砲があった可能性が高いと結論づけました。ただしこの音声分析の信頼性にも後に疑問が投げかけられています。

主要な陰謀論

ケネディ暗殺には数多くの陰謀論が存在します。最も広く語られているのは以下のような説です。

CIA関与説:CIAの一部がケネディの対キューバ政策に不満を持ち、暗殺を計画したとする説。特にケネディが「ピッグス湾の侵攻」失敗後、CIAの解体を検討していたという噂が根拠とされています。

マフィア関与説:ロバート・ケネディ司法長官によるマフィア取り締まり強化への報復として、マフィアがケネディを暗殺したとする説。ジャック・ルビーにはマフィアとの繋がりがあったとも言われています。

ソ連・キューバ関与説:オズワルドのソ連亡命経験やキューバ支持活動から、これらの国々が暗殺に関与していたとする説。しかしこれらの国が暗殺によって得る利益は限られており、むしろリスクが大きかったとする反論もあります。

軍産複合体関与説:ケネディがベトナム戦争の拡大に抵抗していたことから、戦争拡大によって利益を得る勢力が暗殺を計画したとする説。特にケネディが1963年10月に一部の米軍をベトナムから撤退させる命令を出していたことが根拠とされています。

これらの陰謀論はオリバー・ストーン監督の映画『JFK』(1991年)などを通じて広く知られるようになりました。しかしどの説も決定的な証拠に欠けており、多くの推測に基づいているという批判もあります。

ケネディ大統領の葬儀

国葬と追悼行事

ケネディ大統領の葬儀は1963年11月25日、ワシントンD.C.で国葬として執り行われました。この葬儀には世界中から90カ国以上の代表者が参列し、国際的な追悼の場となりました。

葬儀の前日、ケネディの棺は馬が引くケーソン(砲架車)に乗せられホワイトハウスから連邦議会議事堂に運ばれました。議事堂では彼の遺体に敬意を表するために何十万人もの人々が長蛇の列を作りました。

葬儀当日もケーソンに載せられた棺は厳かな葬列とともにセント・マシュー大聖堂へと運ばれました。この葬列の模様はテレビで生中継され、全米そして世界中の視聴者に感動を与えました。

特に印象的だったのは3歳のジョン・F・ケネディ・ジュニアが父の棺の前で敬礼する姿でした。この小さな少年の勇敢な姿は国の喪失感を象徴する永遠の映像となりました。

葬儀後、ケネディはアーリントン国立墓地に埋葬されました。彼の墓には「永遠の炎」が灯され、今日まで多くの訪問者を迎えています。この永遠の炎は夫人ジャクリーンの発案によるもので、彼女自身が点火しました。

歴史的影響と遺産

ケネディ暗殺はアメリカの歴史において重大な転換点となりました。

多くの歴史家はこの事件がアメリカ人の政府への信頼を大きく揺るがせ、その後の社会不安の一因となったと分析しています。

1960年代後半から70年代初頭にかけての社会的混乱—ベトナム戦争反対運動、公民権運動、ウォーターゲート事件など—はケネディ暗殺によって引き起こされた国民的なトラウマと無関係ではないという見方があります。

またケネディの死は彼の政策的遺産にも大きな影響を与えました。

彼の後を継いだジョンソン大統領はケネディの記憶に敬意を表して公民権法や投票権法、メディケアやメディケイドなどの「偉大な社会」プログラムを推進しました。これらの法案はケネディ生前には議会の抵抗に遭っていましたが、彼の死後、その遺志を継ぐ形で実現されたのです。

ケネディ暗殺とその後の調査はアメリカの法執行機関や情報機関にも変化をもたらしました。シークレットサービスは警備手順を大幅に改革し、FBIやCIAは国内政治への関与について厳しい監視下に置かれるようになりました。

今日、ケネディの遺産は複雑な形で生き続けています。彼は短い在任期間にもかかわらず、宇宙開発の推進、キューバ危機の平和的解決、核実験禁止条約の締結など、重要な業績を残しました。

そして何より「Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country(国があなたに何をしてくれるかではなく、あなたが国に何ができるかを問いなさい)」という彼の就任演説の言葉は公共サービスの理想として今なお多くの人々に引用されています。

よくある質問

オズワルドはなぜケネディを暗殺したの?

オズワルドの正確な動機は彼の死によって永遠に謎となってしまいました。一般的には彼の複雑な心理状態と政治的信念が動機だったと考えられています。

マルクス主義に傾倒しソ連に亡命した経験を持つオズワルドはアメリカ社会に強い不満を抱いていたとされています。またケネディ政権の対キューバ政策に反対していた形跡もあります。

しかし単に有名になりたいという欲求から行動した可能性も指摘されています。オズワルドは逮捕時、カメラを向けられると表情が明るくなり、自分の写真がどの新聞に載るか尋ねたという証言もあります。

ザプルーダーフィルムとは何ですか?

ザプルーダーフィルムとは衣料品製造業者のエイブラハム・ザプルーダーが8mmカメラで撮影した、ケネディ暗殺の瞬間を捉えた26.6秒のカラーフィルムです。

このフィルムは暗殺の最も重要な視覚的証拠となり、調査において中心的な役割を果たしました。特にケネディの頭部が撃ち抜かれる瞬間(フレーム313)は弾丸の方向性や発射元についての論争の焦点となっています。

ザプルーダーフィルムは当初、ライフ誌によって独占的に購入されましたが、全編が一般公開されたのは1975年のことでした。現在はケネディ図書館が著作権を所有しています。

政府は暗殺に関する文書をまだ秘密にしているのですか?

はい、一部の文書はまだ非公開です。1992年、議会は「ジョン・F・ケネディ暗殺記録収集法」を可決し、関連するすべての記録を公開するよう命じました。

この法律により数百万ページの文書が公開されましたが、特にCIAとFBIの一部の文書は国家安全保障上の理由から25年間(2017年まで)の公開延期が認められていました。

2017年10月、トランプ大統領は残りの文書のほとんどを公開し、2025年には更に公開しました。

ただし一部はまだ非公開です。陰謀論がさかんに言われる話題ではありますが、確かに未だにすべてを公開しないところ自体に、人々に知られると何か問題のある隠された何かがあると考るのは自然なことなのかもしれません。