1979年のイスラム革命以降イランの女性たちは厳しい制約の中で生きることを強いられてきました。
かつて拡大していた権利が大幅に制限され、広範囲な男尊女卑、ヒジャブの強制着用をはじめとする様々な規制が女性の自由を奪っています。
しかしそのような抑圧の中でもイランの女性たちは自らの権利を求めて立ち上がり続けています。
特に2022年のマフサ・アミニさんの死をきっかけに広がった「女性、命、自由」運動は世界中の注目を集めました。本記事ではイランの政治体制と女性の権利の関係性、その歴史的変遷、そして現代の女性たちによる闘いについて詳しく解説します。
イランの政治体制と女性の地位の関係性
1979年イスラム革命がもたらした政治体制の変化
イランは1979年のイスラム革命以降イスラム共和国としての体制を確立しました。
この革命はパフラヴィー朝の最後の国王モハンマド・レザー・パフラヴィー(通称シャー)の専制的統治を終わらせアヤトラ・ホメイニ率いる宗教指導者たちが政治権力を掌握する結果となりました。
イランの現在の政治体制はヴェラーヤテ・ファギーフ(法学者の統治)と呼ばれる独特のシステムであり最高指導者が国家の最高権力を握る神権政治の形態をとっています。
最高指導者は軍や司法の長を任命する権限を持ち選挙で選ばれた大統領よりも強い影響力を国家の政策や法律に対して及ぼします。
この体制はシーア派イスラム教に基づいており宗教的教義が法律や政策に深く組み込まれています。そのため国家運営は世俗的な価値観よりも宗教的価値観を優先する傾向があり特に女性の権利や自由に関しては厳しい制約が課されることになったのです。
革命から40年以上経った現在もイランの政治体制は基本的に変わっておらず最高指導者アリー・ハーメネイー(1989年就任)のもとで宗教的権威に基づく統治が続いています。
こうした政治体制が女性の権利問題に大きな影響を与えていることは否定できません。
イランにおける女性差別の法的根拠と実態
イランでは国際的な視点から見て女性に対する差別が法律や社会慣習に深く根付いているといえるでしょう。
特に婚姻、離婚、親権に関する法律は女性にとって非常に不利な状況を生み出しています。
例えば女性が離婚を求めるためには非常に限られた条件(夫の精神疾患、長期間の行方不明など)しか認められておらず親権に関しても男性が優位に立つことが一般的です。こうしたことからしばしば男尊女卑と評されるわけです。
公的な場でのヒジャブの着用はイランの法律によって義務付けられておりこれに違反すると罰金や拘禁の対象となります。
具体的には「悪しき姿態と悪徳防止法」に基づき「不適切な服装」とみなされた女性は「道徳警察」と呼ばれる組織により取り締まりの対象となるのです。
2022年9月22歳のクルド人女性マフサ・アミニさんがヒジャブの着用が不適切だとして道徳警察に拘束され拘束中に死亡するという事件が発生しました。この事件は「女性、命、自由」というスローガンのもとに大規模な抗議運動を引き起こし世界中の注目を集めることになりました。
労働市場においても女性は著しい不平等に直面しています。イランの女性の労働力参加率はわずか19%(男性は72%)に過ぎず同じ職務に就いていても女性は男性よりも低い賃金を受け取ることが一般的です。また特定の職業への就業が制限されるなど女性の経済的自立を妨げる障壁が多く存在しています。
こうした状況は世界経済フォーラムの2023年ジェンダーギャップ報告書においても明らかでイランは調査対象146カ国中143位という非常に低い評価を受けています。特に政治参加や経済的機会における男女格差が顕著であり女性の社会的地位向上を妨げる大きな要因となっているのです。
イラン女性の権利の歴史的変遷
革命前(1979年以前)の女性の権利拡大の動き
1979年のイラン革命以前特にパフラヴィー王朝の時代(1925-1979)にはイランの女性の権利は徐々に拡大していました。この時代の女性の権利獲得は主に国家主導の近代化政策の一環として進められたという特徴があります。
リザ・シャー・パフラヴィー(1925-1941年在位)はトルコのアタテュルクの改革に影響を受け女性の社会進出を促進する政策を実施しました。特に1936年には公の場でのスカーフの着用を禁止する「チャドル禁止令」を発布し女性に対する西洋式の服装を奨励しました。また女子教育の拡充にも力を入れ1935年にはテヘラン大学が女性に門戸を開きました。
その息子モハンマド・レザー・パフラヴィー(1941-1979年在位)の時代にはさらに女性の権利が拡大しました。1963年に実施された白色革命の一環として女性は投票権を獲得し議会に立候補する権利も得ました。
1967年には家族保護法が制定され女性の結婚・離婚の権利が強化されたほか男性の一方的な離婚や複婚が制限されるようになりました。
1970年代に入ると多くの都市部の女性たちが高等教育を受け専門職に就くようになりました。女性の大学進学率は急速に上昇し医師や弁護士、教師などの専門職に女性が進出したほか映画監督やアーティストとして活躍する女性も増えていきました。
しかしながらこれらの権利拡大は主に都市部のエリート層の女性に限られていたことも事実です。地方の農村部や低所得層の女性たちにはこうした近代化の恩恵が十分に及ばないケースも多く社会階層による格差が存在していました。またパフラヴィー体制下での政治的自由は厳しく制限されており王権に逆らう者に対する弾圧も強化されていました。
こうした複雑な背景の中で1979年のイスラム革命には様々な立場の女性たちが参加することになります。保守的な宗教観を持つ女性たちはもちろんパフラヴィー体制の抑圧に反対する左派の女性活動家たちも革命運動に加わりました。しかし革命後の展開は多くの女性活動家の期待とは異なる方向に進んでいくことになったのです。
革命後における女性の権利の後退と規制強化
1979年のイラン革命以降女性の権利は大幅に制限されイスラム法(シャリーア)に基づく法律が女性の社会的地位を著しく低下させることになりました。革命指導者アヤトラ・ホメイニは革命直後にヒジャブ着用の義務化を宣言し女性の服装や行動に対する規制を強化しました。
この発表に対し多くの女性たちは抗議活動を行いましたが政府の強い圧力により鎮圧され多くの女性活動家が逮捕されました。1983年には「イスラム刑法」が制定され「不適切な服装」を罰する法的根拠が整備されました。これにより革命前に獲得された多くの権利が失われ女性は家庭内の役割に押し込められる傾向が強まりました。
家族法の分野でも大きな後退が見られました。革命前の家族保護法は廃止され男性の一方的な離婚や複婚が再び容易になりました。女性の結婚最低年齢は13歳(特別な場合は9歳)に引き下げられ子どもの親権は原則として父親または父方の祖父に与えられることになりました。
教育や雇用の面でも制約が増えました。男女共学が廃止され大学の特定の学部では女性の入学が制限されるようになりました。また判事や大統領といった特定の職業や役職から女性が排除され女性の社会参加の機会が著しく制限されました。
しかしイラン・イラク戦争(1980-1988年)の終結後経済再建の必要性から女性の社会参加を一部容認する流れも生まれました。特に1990年代以降は改革派の台頭とともに女性の権利についても限定的ながら前進が見られるようになります。
例えば女性の高等教育進学率は上昇し現在では大学生の約60%を女性が占めるまでになりました。
にもかかわらずイランの女性たちは依然として多くの法的・社会的制約に直面しています。公的な場でのヒジャブ着用義務は継続されており女性に対する差別的な法律も多く残っています。
この状況に対しイランの女性たちは様々な形で抵抗を続けており特に近年はSNSを活用した抗議活動が注目を集めています。
現代イランにおける女性の権利と課題
教育と労働:表面的な進歩と残る格差

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現代イランにおける女性の教育状況は一見すると進歩的に見えます。女性の高等教育進学率は非常に高く大学生の約60%を女性が占めているのです。
これは革命前と比較しても大きな進展であり特に医学や科学、工学などの理系分野においても女性の進学が目立ちます。
しかしこの高い教育率は労働市場への参加には必ずしも結びついていません。女性の労働力参加率はわずか19%に過ぎず高学歴女性の失業率は男性の2倍以上となっています。
このギャップは女性が教育を受けても適切な雇用機会を得られない「教育と雇用のパラドックス」と呼ばれイランの大きな社会問題となっています。
また教育の内容にも問題があります。イランの教科書や教育内容には伝統的なジェンダー役割が強調される傾向があり女性の役割は主に家庭内に限定されるという考え方が根強く残っています。これが女性の社会進出を妨げる心理的・文化的障壁となっているのです。
さらに2010年代には女性の教育機会に新たな制約が課されました。全国36の国立大学で77の学問分野において女性の入学が制限されるようになったのです。これには工学、物理学、コンピュータサイエンス、英語など様々な分野が含まれており女性のキャリア選択に大きな影響を与えています。
労働市場においても女性は多くの障壁に直面しています。特定の職業(判事など)への就業が制限されているだけでなく賃金格差も顕著です。
同じ職務に従事していても女性はしばしば男性よりも低い賃金で働かされています。また職場でのハラスメントに対する法的保護も不十分でありこれが女性の就労意欲を削ぐ要因となっています。
政府は「女性の尊厳と家族の強化」を掲げ女性を家庭に留めることを奨励する政策を採用する傾向があります。例えば出産率向上のための政策が優先され女性の就労支援よりも専業主婦への特典が強化されることもあります。こうした政策は女性の経済的自立を阻む要因となっているのです。
「女性、命、自由」:現代のイラン女性運動の展開
2022年9月に発生したマフサ・アミニさんの死はイランにおける女性の権利運動の転換点となりました。
ヒジャブの着用が「不適切」だとして道徳警察に拘束され拘束中に死亡した22歳の女性の悲劇的な死は「女性、命、自由」(ペルシャ語で「Zan, Zendegi, Azadi」)というスローガンのもと全国的な抗議運動を引き起こしました。
この運動の特徴はその広がりと多様性にあります。都市部のエリート層に限らず様々な社会階層や民族背景を持つ人々が参加し特に若い世代の女性たちが中心的な役割を果たしました。また女性だけでなく多くの男性も運動に加わりジェンダー平等を求める声は社会全体の要求となりました。
抗議の方法も多様化しています。街頭でのデモや抗議行動だけでなくヒジャブを脱ぐ象徴的行為、髪を切る抗議、SNSでのキャンペーンなど様々な形で抵抗の意思が表明されました。特にSNSは国境を越えて連帯を生み出しイランの女性たちの闘いを世界に伝える重要な手段となりました。
この運動は単なるヒジャブ強制への抗議を超えより広範な政治的・社会的変革を求める声へと発展しています。女性の権利だけでなく表現の自由や民主化、経済的公正など社会全体の問題に対する不満が表出する場となりました。
政府の対応は厳しく抗議運動に対しては暴力的な弾圧が行われ多くの死者やけが人が出ています。人権団体の報告によれば少なくとも500人以上が抗議活動中に命を落とし数千人が逮捕されたと言われています。
特に若者や女性活動家、ジャーナリストが標的となり一部の活動家には死刑が言い渡されるなど厳しい状況が続いています。
こうした弾圧にもかかわらずイランの女性たちの抵抗は様々な形で続いています。特に「日常的抵抗」と呼ばれるヒジャブを緩めに着用する、公共の場で歌うなどの小さな抵抗行為はリスクを伴いながらも広がりを見せています。
また国際的な連帯も重要な支えとなっています。世界中の活動家やセレブリティが支持を表明しSNSキャンペーンや抗議活動を通じてイランの女性たちに連帯の意を示しています。こうした国際的な注目はイラン政府に対する圧力となり女性たちの闘いを支える重要な要素となっているのです。
女性の権利運動の歴史と今後の展望
1906年から続く女性の権利闘争の系譜
イランにおける女性の権利運動は1906年の立憲革命にまで遡ります。この時期から女性団体が設立され教育や市民権を求める活動が活発に行われるようになりました。特に「イラン女性覚醒協会」などの組織は女子教育の普及に取り組み女性の社会的地位向上に貢献しました。
1920〜30年代には女性誌の発行や女子学校の設立など女性のエンパワーメントを目指す活動が広がりました。例えば「女性の世界」という雑誌は女性の権利について積極的に発言し社会的変革を促す重要な媒体となりました。
パフラヴィー王朝時代(1925-1979)には国家主導の近代化政策の一環として女性の権利が拡大しました。特に1963年の女性参政権獲得は重要な転換点となり女性議員も誕生するようになりました。しかしこの時期の改革は上からの押し付けという側面もあり社会の一部からの反発も生んでいました。
1979年のイスラム革命後女性の権利は大幅に制限されましたが女性たちは様々な形で抵抗を続けてきました。特に1990年代以降は「イスラムフェミニズム」という新たな潮流が生まれイスラムの枠組みの中で女性の権利を再解釈する試みも行われるようになりました。
2000年代に入ると「100万人署名キャンペーン」などの草の根運動が活発化しました。これは差別的な法律の改正を求める署名活動で女性活動家のシリン・エバディ氏(2003年ノーベル平和賞受賞)などが中心となって展開されました。
2009年の「緑の運動」(選挙不正に抗議する民主化運動)にも多くの女性が参加し政治的変革と女性の権利向上を同時に求める声が高まりました。こうした運動は厳しく弾圧されましたがオンライン空間での活動は継続されデジタル時代の新たな抵抗の形を生み出しています。
そして2022年の「女性、命、自由」運動へとつながっていくのです。この運動は100年以上にわたるイランの女性たちの闘争の延長線上にあり新たな世代が担い手となって展開されているという点で歴史的な意義を持っています。
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デジタル時代のフェミニズム運動とグローバルな連帯
現代のイラン女性運動の特徴はデジタルテクノロジーを効果的に活用している点にあります。厳しい検閲や弾圧の中でSNSやオンラインプラットフォームは重要な抵抗と連帯の場となっています。
特に「ホワイト・ウェンズデイ」(白い水曜日)キャンペーンは女性たちが白いスカーフを掲げるか頭から外して写真や動画を投稿するというオンライン抗議活動で数百万人が参加する大きな運動へと発展しました。
こうしたキャンペーンは国境を越えた連帯を生み出しイランの状況を世界に伝える重要な手段となっています。
VPNや暗号化技術の利用により当局の検閲を回避する工夫も行われています。政府がインターネット接続を制限したり特定のSNSをブロックしたりする中でも若い世代は技術的な知識を活かして情報発信を続けています。
またデジタル空間を活用したドキュメンテーションも重要な役割を果たしています。人権侵害の証拠を記録・共有することで国際的な注目を集め圧力をかける戦略がとられています。「証人プロジェクト」などのイニシアチブは女性に対する暴力や差別の実態を記録し公開することで社会変革を促しています。
グローバルな連帯も拡大しています。#MeToo運動との連携や国際的な女性団体との協力によりイランの女性の闘いはグローバルフェミニズムの重要な一部として認識されるようになりました。特に「女性、命、自由」運動は世界中から支持を受け各国の政府や国際機関にもイランの人権状況改善を求める圧力が高まっています。
こうしたデジタル時代の運動は単にオンライン上の活動にとどまらずリアルな社会変革にもつながっています。例えば「白い水曜日」キャンペーンの創始者であるマシー・アリネジャド氏は「強制的なヒジャブを世界的な議論の的にした」と評価されています。
今後のイラン女性運動はより広範な社会変革運動と連携しながら発展していくことが予想されます。経済的不平等や政治的自由など社会全体の課題と女性の権利問題を結びつけることでより包括的な変革を目指す動きが強まっているのです。
Q&Aコーナー
イランの女性たちは全員ヒジャブの強制に反対しているの?
イランの女性の間でも意見は多様です。保守的な価値観を持ち宗教的理由からヒジャブの着用を支持する女性も一定数存在します。
しかし多くの女性が反対しているのは「強制」という点であり個人の選択の自由を求める声が高まっています。
重要かと思われるのはどのような服装をするかを国家が強制するのではなく女性自身が選択できる権利を持つべきだという考え方です。
イランの女性運動は欧米のフェミニズムと同じですか?
イランの女性運動は独自の文脈と歴史を持っており単純に欧米のフェミニズムと同一視することはできません。
特に「イスラムフェミニズム」と呼ばれる潮流はイスラムの枠組みの中で女性の権利を再解釈し宗教と女性の権利の両立を模索する独自のアプローチを発展させてきました。
またイランの女性運動は政治的自由や社会正義などより広範な社会変革と密接に結びついている点も特徴的です。
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