ベトナムの難民と移民の歴史

歴史

ベトナム移民の歴史

ベトナム戦争の影響

祖国を離れ海外に定住するベトナム人、彼らのその体験は政治的迫害から逃れるものから経済的機会を求めるものまで多岐にわたる。

そしてベトナム移民の歴史は、ベトナム戦争とその余波に深く関わっている特徴的であり、多くの戦争と難民のケースに当てはまる代表的モデルケースともいえる。

ということで、時系列でベトナム移民について説明したいところだが、まずは一番インパクトの大きかったこの出来事の時期から説明していきたい。

ベトナム戦争の終わるまで、つまり1975年以前は、ベトナム人の海外移住は比較的限られていた。留学や外交官なども含めごく少数のベトナムからの移民しかいなかったのだ。

しかし、1975年4月にサイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終結するとその様相は一変します。

北ベトナムの勝利により、南部では土地改革や富の再分配など劇的な政治・経済の変化が起こった。

第一波の移民たち

サイゴン陥落の直後には、「ボートピープル」と呼ばれるベトナム人移民の最初の大きな波が起こりました。

これらの難民は、安全でない小さなボートで逃げることが多く、そのためこの名前がついたわけです。

彼らの多くは、旧南ベトナム政府やアメリカ軍の関係者であり、共産主義政権からの報復を恐れてのことでした。

この移民の動きへの対処としてアメリカは、オーストラリア、フランス、カナダなどとともに、タイ、マレーシア、フィリピンなどの近隣諸国に難民キャンプを設置し、難民の再定住を開始しました。

しかし言葉の壁、文化の違い、人種差別など、いつの時代の難民でもそうだがさまざまな困難が待ち受けていました。

特に彼らに関しては移民と違って、ほとんど突然国外に出る難民です。移住先への準備も出来なかった彼らは特に大変だったことでしょう。これがベトナム戦争の影響による第一波のベトナム移民の人たちです。

第二波の移民たち

そして1970年代後半から1980年代にかけてのベトナム移民の第二波は、まったく異なるものであった。

ベトナムに対して敵対的になっていた中国との間で居場所がなくなってきた中国系ベトナム人や、所得水準、教育水準の比較的低い地方出身者が多数を占めるように変化していったのです。

このようにこの時期の移民は社会経済的な背景が異なるため、彼らの旅はまた別の理由で困難なものとなった。

その後

1980年代後半、ベトナム政府は「ドイモイ」と呼ばれる経済改革を実施し、ベトナムを市場経済へと移行させ始めました。この改革により、ベトナムの生活環境は改善され、難民の流出も抑制される。またベトナム戦争を行ったアメリカは重い腰をあげ「秩序ある出国プログラム」、後に「人道的オペレーション」を創設し、旧南ベトナム軍関係者とその家族の移住を許可する画期的な政策を行う。

これにより米国内のベトナム人コミュニティは大きく成長した。例えば、カリフォルニア州のウェストミンスター市は、ベトナム国外では最大のベトナム人居住地であり、「リトル・サイゴン」というニックネームで呼ばれている。

ベトナム人ディアスポラ(ディアスポラ)は、それぞれの国の社会に溶け込む一方で、祖国との強い文化的・感情的な結びつきを保っています。この絆は、故郷への送金や新天地でのベトナムの習慣や伝統の保存など、さまざまな形で表れています。

ベトナム戦争以前の移民

ベトナム戦争以外でベトナム移民の歴史を広範囲に見た場合、フランスへのベトナム移民が特に注目されるものでしょう。

フランスはフランス領インドシナの一部として、第二次大戦で日本の帝国軍に撤退させられるまではベトナムを長く植民地化していました。

そのためフランスにおけるベトナム人ディアスポラは、最も古く、最も確立されたものの1つといえます。

ベトナム戦争後のフランス移民

第二次大戦後に世界中で帝国主義が終わっていく流れの中、1975年のベトナム戦争終結後にフランスは過去の歴史から一転して、ベトナム難民の主要な移住先のひとつとなりました。

アメリカへの移民と同様、フランスへのベトナム人移民も、南ベトナム政府関係者を中心とした第1波と、主に中国系ベトナム人で構成された第2波の2つに分かれた。

ベトナム人移民はフランス社会に溶け込むことが出来るものもいえれば、植民地時代の考え方の名残りで、時に差別的な態度や社会的不公平を味わうことにもなった。

ドイツにも日本にも。世界に向かうベトナム移民

その他でもベトナム人の移民は、ドイツ、韓国、台湾、オーストラリア、東欧諸国、日本など、世界の他の国々でも起きた。

例えば、統一前の東ドイツでは、1980年代に多くのベトナム人労働者を「契約労働者」として受け入れていた。しかし、統一後、これらの労働者はしばしば失業や社会的疎外に直面するようになった。

オーストラリアでは戦後のベトナムから逃れてきた難民に対する人道的対応の一環として、1970年代から1980年代にかけてはかなりの数のベトナム人移民が到着した。

日本でのベトナム人受け入れ

そして近年の日本では経済的な目的による、日本の技能実習生制度などを利用したベトナムからの実質的な移民がたった10年ほどで大量に増えているのも特筆すべきことだ。

日本は東京であれば中国人、大阪であれば韓国人などの外国籍、また工場労働ではブラジルなどからの南米移民やサービス業などではビザの関係からフィリピン人などがいる、こうした状況が長らく続いてきた。

しかし近年になり技能実習制度の要件緩和で多くの実質的な移民労働者を受け入れ、その中心ともいえるのがベトナム人労働者といえるだろう。

実質的な低賃金労働者として雇い喜ぶ現地企業がある反面で、そうした企業による酷い扱い、また一部のベトナム人による日本での犯罪行為も低犯罪率の日本ではかなり目立っている。

ベトナムと日本は、国としても、お互いの国民同士の印象としても、統計などを見るとかなり良い関係が長く続いてきた。

ただ、こうした日本側の不適切な扱いに寛容な実質的な移民制度と、割合としてはごく一部のベトナム人の犯罪行為のため、近年の日本でいえば広範囲に社会問題となっているのが実情といえるだろう。

備考

ボートピープルとは

ボートピープルとはベトナム戦争後、特に1978年から1979年にかけて船やボートでベトナムから脱出した難民の集団のことを指す。

共産主義政権による迫害を恐れ何十万人もの人々がボロボロの船で危険な航海をしたのが印象的だったことから”Boat People “と呼ばれるようになりました。

これらの難民の多くは海賊の襲撃、台風、水や食料の不足など、さまざまな困難に直面した。このような困難にもかかわらず、推定80万人の人々が航海を乗り越えて他国に渡り、定住して新しい生活をスタートさせた。

こうしたことは歴史上重要な人道的危機の問題として難民が取り上げられることにつながった。1979年のジュネーブ会議以降は各国が難民を受け入れるための計画が動き出しました。

ドイモイって具体的に何をしたの?

ドイモイはベトナム語で刷新、英語でいうなら”リノベーション “と訳される言葉です。

1986年にベトナムで始まった”社会主義志向の市場経済 “を目指した経済改革のことを指します。

それまでの中央計画経済や集団化された農業が苦境に立たされていたことから、劇的な転換を図る政策でした。

大局的観点からはドイモイ改革はベトナム経済を自由化し世界市場に統合することを目的としていました。

その主な内容は以下の通りです。

農業でいえば、農業協同組合解体による農業生産の非集団化と農民への土地使用権の付与、農産物の市場開放を行って農産物価格の自由化。

ビジネス面では、民間企業の促進、企業の株式化、非効率な公営企業の整理、外国資本企業の特区設置、貿易の規制緩和、インフラ投資などです。

金融セクターでは国営銀行改革と、外国銀行の進出許可を行い、金融市場の自由化も進めることで、一気に近代化を行いました。

実際に結果として大きな変革がもたらされ、ドイモイ実施以降、ベトナムのGDP成長率は急速に伸び貧困率も急落しました。

産業面からいうと、繊維や農業、最近ではテクノロジーやエレクトロニクスなどの分野で、ベトナムが主要な輸出国になることにもつながりました。

ネガティブな点をいえば、所得格差の拡大、環境破壊、汚職といった課題ももたらしましたが、この政策はベトナム経済の軌道を大きく改善した点として一般に受け止められています。そしてこのドイモイの成功によって、一旦国外に行った経済的理由による移民も一部の人々は帰国するといった流れにもつながったほどです。