人間関係から見るナポレオン

歴史

ナポレオンと彼のつながり

ナポレオンとその出自 2人の兄弟も王に

世界史で最も影響力のある人物の一人であるナポレオン・ボナパルトには、彼の人生と権力獲得に極めて重要な役割を果たした個人的・政治的関係が数多くありました。その人脈は、肉親から政治的な同盟やライバル関係、そして2度の結婚にまで及びます。

彼はカルロ・ボナパルトとレティツィア・ラモリーノの間に生まれた8人の子供のうち、2番目の子供であった。

特に、ナポレオンが兄弟を征服した国の君主に据えた後、兄弟との関係はしばしば緊張と力関係で特徴づけられた。例えば兄ルイをオランダ王、弟ジョセフをナポリ王、後にスペイン王に任命した。

しかし、これらの任命はのちに意見の相違や対立を引き起こすことにもなった。

彼はシャルルマーニュとユリウス・カエサルを尊敬し、彼らの帝国の後継者であると自身を考えた。

ロシア皇帝アレクサンドル1世との関係は、友好的なものから敵対的なものへと変化し、1812年のロシアへの侵攻でその頂点に達した。

また、イギリスとの関係も、トラファルガー海戦やワーテルローでの敗戦など対立の連続であった。

恋愛や婚姻関連  知られざる後継者候補、ウジェーヌ

最初の妻ジョゼフィーヌ・ド・ボーアルネは、ナポレオンの人生において重要な関係であった。当初、ナポレオンはジョゼフィーヌを深く愛していたが、彼女が子供を産めないこと、不倫の噂があることなどから、二人の関係はぎくしゃくした。

結、彼はジョゼフィーヌと離婚し、オーストリアとの同盟と跡継ぎを確保するためにパルマ公爵夫人マリー・ルイーズと結婚した。

二人の息子、ナポレオン・フランソワ・ジョセフ・シャルル・ボナパルトは、生まれたときはローマ王として知られ、後にライヒシュタット公ナポレオン2世となる。

さらにナポレオンは何度か婚外恋愛をしたことでも知られている。特にポーランド貴族のマリー・ワレフスカとの間に子供をもうけた。

こうした関係は個人的なものでありながら同時に、政治的な意味合いを持ち同盟を結ぶために利用された。

また、ジョゼフィーヌの最初の結婚相手との間に生まれた継子、ウジェーヌ・ド・ボーアルネとの関係も興味深いものだ。

ウジェーヌはナポレオンに忠実に仕え、ジョゼフィーヌとの結婚後はなんとナポレオンの養子になったのだ。

ナポレオンはこのウジェーヌを後継者として考えていたほどで二人の関係の深さを物語っている。

友情や政治上のつながり

まず、ミシェル・ネイ元帥。彼はナポレオンに忠実でいくつかの大きな戦いで重要な役割を果たしました。しかし、ネイは百日戦で約束を果たせず、王党派に流されルイ18世側に亡命したため、二人の関係はこじれることとなった。これはワーテルローでのナポレオンの最終的な敗北に直結した。

逆に政治的に激しく敵対した人物、特にワーテルローの戦いでナポレオンを破ったウェリントン公爵との関係も無視できない。敵同士でありながら互いに尊敬の念を抱いていたのである。ナポレオンの死後、ウェリントンは「戦場におけるナポレオンの存在は、4万人の兵士に匹敵する」と言ったほどである。

他にも、参謀長であったルイ=アレクサンドル・ベルティエ元帥は、ナポレオンの最も信頼できる同盟者であり腹心の友の一人であった。ベルティエの綿密な計画と組織化のスキルは、ナポレオンの戦略的洞察力を補完し、ナポレオンの作戦の成功に大きく貢献した。

ジャン・ランヌ将軍も1809年に亡くなってしまったがナポレオンの親友であった。ランヌの死を聞いて、いつもは冷静なナポレオンは打ちのめされた。

ローマ教皇ピウス7世との関係。ナポレオンは当初、教皇と同盟を結び、1801年のコンコルダートでフランスと教皇庁の関係を回復させた。しかし、ナポレオンの要求が教会の自治を侵害するようになると両者の関係は悪化した。1809年、教皇はナポレオンを破門にした。

意外なところでは科学界とのつながりもある。頭脳明晰で数学なども得意だったナポレオンは科学にも大きな関心を持っていた。

いくつかの科学的な探検やプロジェクトではスポンサーともなっていたのだ。例えば、数学者のガスパール・モンジュや化学者のクロード・ルイ・ベルトレとは密接な協力関係を築いていた。

備考

コンコルダート

1801年、ナポレオン・ボナパルトとローマ教皇ピウス7世との間で結ばれた協定で、フランス革命の混乱の後、フランスのカトリック教会とフランス国家との融和を図った。

この協定では、カトリックをフランスの「優先的」な宗教として認めた。

その反面で国教としては認めずフランスは信教の自由を維持した。また、聖職者の給与を国が負担し、聖職者の任命にも口を出すことを認め、ナポレオンが教会をある程度コントロールできるようになった。

トラファルガーの海戦

トラファルガーの海戦は1805年にスペイン沖でイギリス海軍とフランスとスペインの連合艦隊の間で戦われた海戦。

ナポレオンの関与は間接的なもので、この海戦は第三次連合戦争における彼の広範な戦略目標の一部であった。フランス艦隊とスペイン艦隊の指揮権はピエール=シャルル・ヴィルヌーヴ提督にあった。そしてイギリス海軍はネルソン卿の指揮の下で決定的な勝利を収める。

結果としてこの戦いはフランス海軍を事実上壊滅させ、イギリスへの侵攻を事実上不可能にした分節点であった。

ジョゼフィーヌ

ナポレオンの最初の妻であり、初代フランス皇后である。

マリー・ジョゼフ・ローズ・タッシェ・ド・ラ・パジェリーとして生まれた彼女は、ナポレオンと出会った時、2人の子供を持つ未亡人だった。

ナポレオンは最初は無関心だったが彼女と深い恋に落ちて1796年に結婚した。しかしナポレオンの長期にわたる軍事行動や、子供を産むことができなかったことなど、ナポレオンが跡継ぎを望んでいたことを考えると重要な問題が彼らには生じてきた。

最終的にナポレオンは1810年にジョゼフィーヌと離婚しオーストリア大公妃マリー・ルイーズと結婚することを決めた。離婚にもかかわらずナポレオンはジョゼフィーヌに深い愛情を抱き続け、死の床で彼女の名を口にしたと言われている。

ワーテルローの戦い

1815年6月18日に現在のベルギー、ワーテルロー近郊で行われたヨーロッパ史上の決定的な戦いである。

この戦いは、亡命後、百日天下でフランスに復権したナポレオンの最後の敗北となった。

ウェリントン公とゲバルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヒャーがそれぞれ指揮するイギリス、プロイセン、およびその同盟国の軍隊がフランス軍を破り、ナポレオン戦争は事実上終結した。

ナポレオン自身もこの戦いでフランス軍の指揮官として重要な役割を果たした。ウェリントン公爵率いる第7連合軍とゲバルト・レーベレヒト・フォン・ブリュッヒャー率いるプロイセン軍を前に、ナポレオンは両軍を引き離し、打ち負かそうといくつかの戦術を用いた。

ただ結果としては彼の戦術は失敗に終わり、連合軍は持ちこたえた。プロイセンの援軍が到着し、第7連合軍が優勢となりナポレオンは敗北、そして退位した。

ウェリントン公爵

第1代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーは、アングロ・アイリッシュの軍人であり、1815年のワーテルローの戦いでナポレオンを破ったことで知られるトーリー党(現在の保守党)の政治家である。

軍事的な功績に加えて、イギリスの首相を2度務め、19世紀のイギリスを代表する政治家の一人でもある。ワーテルローの戦いに勝利したことで彼は英国の軍事的英雄の頂点に立ち、その政治的キャリアは英国史における重要人物としての地位をさらに確固たるものにした。

モンジュとベルトレ

ガスパール・モンジュはフランスの記述幾何学の発明者。ナポレオンの重要な助言者の一人となった人物だ。モンジュは様々な軍事作戦でナポレオンを支援し、特にエジプトでは軍事遠征に同行する科学的使命の一端を担った。

モンジュとナポレオンの関係は、科学顧問としてだけでなく教育者としてもあった。彼はナポレオンの支配下で、エコール・ポリテクニークのようなさまざまな教育機関の設立に貢献した。

クロード・ルイ・ベルトレは、化学反応の研究と漂白剤の研究で有名な化学者であった。

モンジュと同様、ベルトレもナポレオンのエジプト遠征に同行した科学探検隊のメンバーだった。ベルトレの貢献もナポレオンに高く評価され信頼できる助言者となった。

彼の影響は、特に火薬の製造において軍事的に応用可能な、新しい製造工程をフランスに導入するなどさまざまな面で見られた。